東京から、仙台へ
1902年(明治35)春、周樹人は、浙江省(せっこうしょう)の官費留学生として日本へ渡り、東京の「弘文学院(こうぶんがくいん)」に入学した。当時東京には、こうした留学生向けの学校で学ぶ多数の「清国留学生」がいた。周樹人もまたこの留学生社会の一員として、浙江省の同郷会誌である『浙江潮(せっこうちょう)』に小説や論文を投稿したり、学校の教育方針に抗議するストライキに参加したりしている。
しかし、彼は一方でこうした留学生社会に対し、冷めた視点をも持っていた。やがて医学を志した周樹人は、弘文学院卒業後の進学先に、仙台の医学専門学校を選ぶ。留学生が誰もいない場所、というのがその理由であった。